近年マーケティング手法において、行動観察を行う「エスノグラフィ調査」が注目されています。「エスノグラフィ調査」は、先入観や環境に左右されず、自然な日常の行動から気付きを得られることから注目されるようになりました。
定量的なアンケート調査や、定性的なインタビュー調査に加えた、新たな調査手法として活用されるようになっています。
そして最近、その「エスノグラフィ」を単独で扱うのではなく、ビッグデータを補完するために活用するケースが注目を集めています。エスノグラフィとはどのような考え方で、どのような効果が得られるのか解説します。
エスノグラフィ(ethnography)とは、ギリシア語のethnos(民族)、graphein(記述)を由来とする英語で、「民族誌、民族誌学」と訳されます。もともとは文化人類学や民族学の分野で主に用いられてきた研究手法で、民族文化を解き明かすために、その土地の風習、行動様式などを詳細に記録してきたものです。
近年では「新たな課題発見の手段」として、活用が進んでいます。
例えば、定量的なアンケート調査では、質問に対する回答からしか分析は行えません。またインタビューなどの定性調査でも、分析できる要素は広がりますが、基本的には質問に対する返答を分析することになります。つまり、調査主体が事前に想定したことに対する返答を分析するのが、定量・定性調査となります。
ただこの手法ですと、調査主体も気づいていない事項に関しての調査ができません。
なぜなら、調査主体が気づいていないことは、質問できないからです。
そこで注目されるようになったのが、エスノグラフィによる「行動観察」です。
特に調査主体から質問などは行わず、まずは調査対象の「行動観察」を行います。黙って観察するだけでも、「なぜ、あんな行動をしたのだろう」とか「行動の順序には意図があるのだろうか」など、様々な気付きや疑問が出てきます。最終的には、その気付きや疑問をインタビューにて整理していくのです。
このようにエスノグラフィでは、被験者の日常の行動や何気ない言動を観察することで、潜在的なニーズを探ってゆくのです。
そんなエスノグラフィ調査は、具体的にはどのように実施されているのでしょうか。 調査会社が提供しているサービスでは、被験者が先入観なく自然体な状況で行動できるように、自宅などの普段生活している環境に定点カメラを設置したり、ウェアラブルカメラを身に着けていただき、その映像などから行動観察を行います。
そのような行動観察を経て、調査主体が気になったポイントについてインタビューするなどして被験者の意識を確認していきます。
定量調査、定性調査と比較した際の相違点は、以下のようになります。
手法 | 調査形式 |
---|---|
定量調査 | 確定型調査 質問内容や聴取順序などが事前に確定している |
定性調査 | 中間型調査 質問内容や聴取順序は用意しているが、対象者の回答によって臨機応変に調査内容を変化させる |
エスノグラフィ調査 | 観察型調査 基本的に質問などの対応は控えた、被験者の行動観察を中心とした調査 |
上記のようにカメラなどの映像を活用した「観察調査」の他に、日々の行動を日記形式で記録してもらう「日記調査」や、日々の買い物の内容をレシートなどで確認する「購買調査」などもあります。 いずれの調査でも、調査主体が事前に質問事項を用意するのではなく、映像やテキスト情報で記録された内容を観察することから始まる調査になります。
では、エスノグラフィを取り入れることで、何が得られるのでしょうか。
エスノグラフィを取り入れた調査では、観察者の先入観を除外した、思いつきもしなかった気付きを得ることができるという利点があります。
例えば、HEINZ(ハインツ)のトマトケチャップは、注ぎ口がパッケージの下側にあります。これはエスノグラフィ調査で消費者の食生活を観察した際に、残り少なくなるとケチャップを逆さまにして冷蔵庫に保存し、さらに残り僅かになると底を叩きながらケチャップを取り出しているということがわかったことから、パッケージの形状を変更したものです。
このようにエスノグラフィ調査では、想定外の発見だけでなく下記のような効果も期待できます。
では、企業はエスノグラフィを、どのように取り入れているのでしょうか。
先程のHEINZのトマトケチャップは、商品パッケージに活用された事例ですが、その他の活用事例を紹介します。
富士通は、クライアント企業の「業務改善や業務プロセス変革」のために、ICTシステムなどを活用したソリューションを提供しています。そのため、業務改善を実現する上で妨げとなっている原因を探り、現実的な改善案を策定する必要がありました。
もちろんICTシステムは、業務改善に活用できるツールです。しかし、システムなどの技術論での解決策は業務の一部であり、業務全体ではもっと改善できる部分が多いはずだという視点から、現場の実態を観察分析する「コーポレート・エスノグラフィ」を取り入れました。これにより、現場の業務を詳細まで観察・記録することができるようになり、問題点や課題の洗い出しに成功しています。
こうして富士通は、クライアント業務のワークフロー全体をリアルに把握したうえで、効果的な業務方法を提案できるようになり、クライアントのオペレーションを効率化することに成功したのです。
花王は「アンチエイジング」に関する消費者調査において、エスノグラフィを用いて消費者理解を深めることに成功しています。アンチエイジングに関する調査とは、消費者がエイジングをいつどのようにして気付き、気にするようになり、それをどう対策するかを知ることです。アンケートの定量調査や、インタビューの定性調査だけでなく、消費者の生活の中における、どのような行動のタイミングで、何を感じるのかをリアルに調べる必要があります。
花王はこの調査を通じて、「消費者はエイジングについてどのように認識しているのか」「エイジングに熱心な理由は何か」といった疑問の答えを明らかにし、新しい視点を発見することが狙いでした。そこで被験者の家庭内での行動をビデオで撮影し、話す言葉だけでなく声や動作など些細な反応も記録するよう努めたのです。このような取り組みによって、アンチエイジングに対する人々の考え方について一定の結論を得ることができたと言います。
読売新聞には、読者がどのように紙面を読んでいるのか分からない、紙面の広告効果が見えづらいなどの課題がありました。そこで読売新聞は、モニターを集めて普段通り読んでいる姿を観察・記録し、インタビューも実施することで新聞の読み方を細かく観察しました。
このエスノグラフィ調査により、新聞は家族や周囲とのコミュニケーションに活用されること、新聞広告では既に知っている情報について理解を深めていること、そして具体的な数字が関心を高めたり理解を深めたりするのに役立っていること、また見落としや読み残しがないか確認作業が行われることなどを発見し、その結果が紙面づくりに活かされているそうです。
さて、そのように活用されている「エスノグラフィ」ですが、近年はビッグデータを補完する存在としても注目されるようになっています。
巨大な定量データの集合体である「ビッグデータ」に対して、人の感情や社会的コンテクスト・文化といった質的情報は、「シックデータ(厚いデータ)」と呼ばれています。ビッグデータが、“計測者によってあらかじめ決められた項目”を大量に取得するのに対し、シックデータは“計測者が予想していない情報”を取得することが目的となります。
例えば購買情報を考えた場合、ビッグデータは買い物の内容つまり購入商品や購入頻度や購入金額などを計測します。対してシックデータは、買い物に行くきっかけは何か、買い物の途中でどんなことを考えているのか、買おうとしてやめたのはなぜか、などPOSデータには残らない行動や意識、価値観や文化的背景を深く掘り下げます。
このように、ビッグデータにシックデータを掛け合わせることで、以下のようなニーズを補完できると考えられています。
など
また、Yahoo CSOの安宅和人さんはDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー2014年8月号で、行動観察と定量調査・定性調査・ビッグデータの関係を、「市場を知る手法の4象限」として、下記の図のように表現しています。
※DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー2014年8月号 安宅和人「ビッグデータvs 行動観察データ:どちらが顧客のインサイトを得られるのか」より
”このようにマーケティング実務者の立場として、ビッグデータと行動観察データは、定量vs定性の軸ではとらえられず、またとらえるべきではないと考えている。
行動観察とその他の定性調査や定量調査を分けて考えている人は、この分類に違和感を感じるかもしれない。しかし、消費者にダイレクトにほしいものを聞くような手法で彼らのニーズや背後の「why(なぜ)」をとらえることは稀だ。純粋な行動観察を行っている時以外でも、行動観察的な発想なしに有力な仮説を得るのは難しいからだ。”
いわゆる「エスノグラフィ調査」を「狭義の行動観察」と捉えると、イメージしやすくなるかと思います。「エスノグラフィ調査」では、行動観察後にインタビューでの定性調査も実施します。また「エスノグラフィ調査」での気付きが、多くの属性でも正しいかを確認するために、定量調査を実施する場合もあるでしょう。そのような広義の意味では、定性調査も定量調査も、行動観察の一部であると考えられるのです。
ビッグデータを補完するためにシックデータを扱うデータ分析には、「センスメイキング」という考え方が有効です。「センスメイキング」とは何か、どのように活用すべきなのかは、こちらをご覧ください。
同様に、ビッグデータを補完するために扱うシックデータを「スモールデータ」と呼ぶ場合もあります。ビッグデータとスモールデータの違いや、ビッグデータを補完するための考え方は、こちらをご覧ください。
このように、ビッグデータ分析を補完するためにも活用される「エスノグラフィ」は、近年さらなる進化を遂げています。
これまで紹介してきた事例は、実際に調査対象の人物が行っている行動観察をもとに分析されています。しかし、人物が行っている行動は今や、デジタル空間におけるログデータとしても存在します。そこに着目して、デジタル空間上のビッグデータをエスノグラフィ視点で分析するアプローチも出現しています。
博報堂が運営するマーケティングメディア「生活総研」では、デジタル空間上のビッグデータをエスノグラフィ視点で分析する「デジノグラフィ」という新しい研究アプローチを開始しています。
デジタル空間上には、検索/位置/購買/画像などの膨大なアクチュアルデータが存在します。その膨大なアクチュアルデータを、エスノグラフィ視点となる考現学的手法で掘り下げ、生活者の見えざる価値観や欲求を発見するというのが「デジノグラフィ」の発想です。
例えば、若者は検索エンジンでの検索をしなくなっているという「若者の検索離れ」が本当かという検証が、「デジノグラフィ」で行われ話題となりました。
ビッグデータから解析された若者の24時間のスマホ利用行動を2分間に縮めてみるなどの行動観察手法から、実際はSNSを中心に多種多様なアプリをホッピングしつつも、関心の赴くまま、多くのワードをブラウザ検索していることが分かったそうです。
このようにエスノグラフィは、アナログな行動観察だけでなく、デジタル空間における行動観察にまで広がり、これまでの固定観念を覆す調査結果を導き出しているのです。
エスノグラフィ(ethnography)とは、もともとは文化人類学や民族学の分野で主に用いられてきた研究手法で、民族文化を解き明かすために、その土地の風習、行動様式などを詳細に記録してきたもの。近年では「新たな課題を発見する手段」として、活用が進んでいます。
これまでの定量調査や定性調査では把握することのできなかった、調査主体も気づいていないことを発見するための手法として「行動観察」を行う「エスノグラフィ調査」が登場しました。
消費者が、どのように商品を使用しているかを観察することから、HEINZ(ハインツ)のトマトケチャップは、注ぎ口がパッケージの下側に変更されるなど、エスノグラフィは調査主体に新たな発見をもたらしています。
そして最近は、デジタル上の行動のビッグデータとエスノグラフィ視点を掛け合わせて分析する「デジノグラフィ」という分析手法もでてきています。
エスノグラフィは、単なる行動分析に留まらず、ビッグデータを補完する「シックデータ(厚いデータ)」としても活用が期待されているのです。
出典・参照
・あしたの人事「エスノグラフィーとは?効果やメリット、ビジネス成功事例を解説」
・カオナビ「【研究手法】エスノグラフィーとは? 人材育成やマーケティングへの活用法」
・NEO MARKETING「エスノグラフィーとは?定義と方法、成功事例をわかりやすくご紹介」
・株式会社レアソン「行動観察/エスノグラフィー」
・Pop Insight「エスノグラフィー・行動観察調査の3つの価値と事例」
・adv.yomiuri「新聞の読まれ方を観察する新聞版エスノグラフィーの試み」
・ASMARQ「エスノグラフィとは」
・TRINTY「ビッグデータを補完するシックデータ:イノベーションの種を掴むエスノグラフィ」
・書籍:DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー2014年8月号
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