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言語交換レッスンというアクティビティを聞いたことはありますか?
その仕組みはシンプルで、例えばドイツ語を学びたい日本人と、日本語を学びたいドイツ人が、お互いに母国語を教え合うというもの。ドイツ語学習中の筆者も、何人かの外国人と言語交換レッスンをしたことがあります。
そこで気がつくのが、いかつい男性でも日本語の一人称に「わたし」を使うこと。日本語学習テキストの一人称が「わたし」に統一されているせいでしょうが、くだけた場での男性の一人称は「俺」か「僕」が一般的なので、何となく違和感を感じてしまいます。そう指摘してみるのですが、皆さん気にせず「わたし」を使い続けます。
ヨーロッパ言語には一人称にバリエーションがありません(名詞や動詞の受動態には性があります)。老若男女誰もが、英語なら「I」、スペイン語なら「Yo」、ドイツ語なら「Ich」を使うわけです。そのため彼らには、性別や状況に応じて一人称を使い分けるという感覚がピンと来ないのでしょう。
こうして考えてみると、日本語には実にたくさんの一人称があり、その使い分けも複雑です。いったいどれくらい種類があるのか、その歴史を含めて考察してみましょう。
僕(ぼく)
男性がプライベートな場で使う一人称ですが、フォーマルな場でもある程度使用されている印象。「下僕」という言葉があるように、もとは男の召使いを表す謙譲語で、平安時代には「僕」と書いて「やつがれ」と読みました。「ボク」という読み方は明治時代以降に書生(使用人を兼ねた学生の居候)の間で広く使用されるようになり、一般にも広まりました。
俺(おれ)
男性がプライベートな場で用いる一人称で、フォーマルな場では基本的には使用されません。「俺」という漢字が常用漢字に追加されたのはごく最近の2010年で、検討中は「品がない言葉だから追加するべきではない」という反対意見さえあったとか。
鎌倉時代までは二人称でしたが、地方に広まったことで一人称に転用されました。江戸時代には身分や性別を問わず使われていました。
あたし
「わたし」のくだけた発音で、現代では主に女性が使用します。いわゆる江戸っ子表現では職人や商人の男性が一人称として使用します。
うち
西日本で女性の一人称として使われる方言のような位置づけですが、近年では全国的に若い女性の間で使われることが増えています。
私(わたくし、わたし)
男女問わず最も一般的な一人称で、「わたし」は「わたくし」のくだけた言い方。フォーマルな場では男性にも使用されます。
自分(じぶん)
明治時代以降に広まった一人称で、旧日本軍では使用を推奨されていました。現在でもやや男性的な印象がありますが、スポーツ選手など職業によっては女性にも使用されます。
関西地方では相手を呼ぶ際の二人称として使われることがあり、他にも同地方では「われ」「おのれ」「おんどれ」などの一人称が二人称として使用されることがあります。
当方(とうほう)
ビジネス文書によく見られる一人称表現。話し手個人を指すだけでなく、所属団体を総称する場合もあります。
本職・小職
公務員が職務での自称に使う一人称。
愚僧(ぐそう)
僧侶が自分をへりくだって呼ぶ一人称。
一人称ひとつで、自分の印象や社会的地位、相手との距離感などさまざまな要素を定義できてしまう日本語。
実は近代以前の日本には、ここで紹介した以外にもはるかにたくさんの一人称が存在していました。思いつくだけでも、わし、拙者、我輩、某(それがし)、麿(まろ)、小生、妾(わらわ)、身ども、あっし…など枚挙にいとまがありません。
しかし、その多くが明治時代以降に使われなくなりました。ここから、逆説的に日本語の一人称が豊富な理由を探ることができそうです。
文明開化によって本格的に西洋の文化の洗礼を受け、日本人は初めて「個人」(他者の影響を受けない独立した存在)という概念を知りました。それ以前は、「家」「村」「藩」といった共同体の中で、周囲の人との関わりによって自己同一性は変化するという暗黙の了解がありました。ですから「そのときどきの自分」に合わせて一人称を変える必要があったわけです。
明治時代以前に男性の一人称が女性よりも圧倒的に多かったのは、家庭内での「自分」しかなかった女性に比べ、男性は様々な立場から人と関わる必要があったからでしょう。
しかし日本社会に「個人」の概念が浸透するにつれ、「そのときどきの自分」のバリエーションが減っていき、自己同一性の統合が進んだのだと思われます。
これは日本語特有の現象ではなく、中国語も同様の変化をたどった可能性があります。というのも、古代の中国語には我、予、余、臣、妾、朕など立場に合わせてさまざまな一人称が存在していましたが(漢文で習いましたね)、現在は「我」に統一されているためです。
とは言え、現在でも日本語における一人称は話し手の印象を大きく左右します。ですから一人称が1つしかない言語を日本語に翻訳する際は、話し手の個性を反映した一人称を当てる必要があります。
例えば、ルイ14世が言い放った「朕は国家なり」。これがもし、「私は国家なり」だったら、前者と同じ迫力や説得力を感じ取れるでしょうか。
「朕」はもともと古代中国の貴族が使っていたものを、秦の始皇帝時代から天子のみが使える一人称になったという経緯があります。日本では天皇限定の一人称として非常に特別な位置づけでした。こうした経緯があるこそ得られる「唯一絶対」という印象を利用したまさに翻訳の妙とも言える好訳ですね。
これとは対照的に、パンクバンドのセックス・ピストルズの歌詞の一人称「I(アイ)」は間違いなく「俺」であるべきです。彼らのあまりにも有名な歌詞「アイ・アム・アナーキスト」の訳が「僕はアナーキストです」とされていた場合、お行儀が良すぎて曲のイメージが台無しになってしまう、と感じる人も多いかと思います。
相手に与える印象を操作できたり、関係性を明白にできたりと、使い方次第によっては便利な一人称。何気ない日常の使い分けを振り返ってみると、自意識の裏側が垣間見えて面白いかもしれません。ヤフーのビッグデータ分析チームによって書かれた「ビッグデータ探偵団」においても一人称・二人称の興味深い分析が行われており、歌詞の「一人称/二人称」のうち最も多いのは「君/僕」で、「私/あんた」だったのは故やしきたかじん氏のみ、など興味深いと同時にちょっと面白おかしい部分も明らかにされています。このあたりに関心がある方はぜひこちらの記事も合わせてどうぞ!
参考リンク: ・日本語の一人称代名詞 ・中国語の「私」「あなた」などの人称代詞の表現
(佐藤ちひろ)
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