ソフトバンク株式会社 法人統括戦略顧問、金沢大学客員教授 山野之義氏
田中潤(以下、田中):まずは山野さんのキャリアについてお聞かせいただけますか。特に、ソフトバンク時代の経験がその後にどのように影響を与えたのか興味があります。
山野之義氏(以下、山野):私は1962年3月30日生まれ、今年63歳になりました。慶應義塾大学在学中の起業を経て、ソフトバンクに入社。当時は、「株式会社日本ソフトバンク」という社名で、従業員数は100人ほどでしたでしょうか。孫さん(孫正義氏。日本ソフトバンク創業者、ソフトバンクグループ株式会社代表取締役 会長 兼社長執行役員)と膝を突き合わせて仕事をすることもありました。出版部門で広告営業をしていた1994年、家庭の事情で金沢に戻らざるを得なくなりました。
当初は今一度の起業を考えており、そのためにリサーチをしていたところ、3カ月後に金沢市議会議員選挙があることを知りました。営業には自信があったので「自分を売ろう、買ってもらおう」と考えて立候補を決意。当選しました。
田中:地元とはいえ、基盤がない中で当選できたのはなぜでしょうか。
山野:運がよかったからではないでしょうか。自信満々で臨みましたが、得票数は2,715票で最下位に近い。4年前でも4年後でもおそらく落選していた票数でした。とにかく運がよかった。それだけです。
議員時代は地道な活動を続けました。議会レポートを自分で作成して配って回ったり、議会活動も自分なりにまじめに取り組んでいました。職員の皆さんからの評判は悪くなかったと思いますよ(笑)。当時市長だった山出保(やまでたもつ)さんは非常に立派な方で、若手だった私の意見も自然に受け入れてくださいました。
田中:当時の山出市長のリーダーシップに触れる中で、特に印象に残ったエピソードや学びはありますか。また、それが山野さんご自身のリーダーシップにどのように影響を与えたのでしょうか。
ウイングアーク1st株式会社 代表取締役社長執行役員CEO 田中潤
山野:対立を避け、包摂的なアプローチで物事を進める姿勢や、市民や職員との信頼関係を大切にする考え方は、私自身の政治姿勢にも大きく影響を与えたと思います。
田中:市議会議員を4期15年務められた後、2010年11月の金沢市長選挙への挑戦を決断されました。その背景にはどのような考えがあったのでしょうか。また、市長として最初に掲げた目標は何でしたか。
山野:市民の皆さんに選択肢を提示しなければという思いもあり市長選挙に出馬し、僅差で当選しました。権力が集中すると必ず腐敗が起こるという考えから、「3期12年で辞める」と決め、宣言もしていました。その期間で、金沢市の発信力を高めることを目標に定めていました。金沢のブランド力を大切にしながら発信を行い、観光客に喜んでもらえるまちづくりではなく、まずは地元の方たちに誇りを持ってもらえるまちにしなければならないと考えました。
前市長の山出さんは、伝統文化や伝統工芸を磨くことに力を入れてこられました。しかも、これまでのものに固執するだけではなく、外からの刺激を取り入れて新しい価値観を生み出そうとされていました。その考えが具現化されたものの1つが「金沢21世紀美術館」です。私はこの流れを継承しながら、スポーツ文化と建築文化とを柱にすることにしました。
金沢は戦災やまちなみが壊れてしまうような大きな自然災害に遭ったことがなく、古いまちなみが残っています。建築は生活そのものであり、文化として捉え直したいと思いました。スポーツも同じで、地域の基盤があってこそスターが生まれます。生活に根差した文化として、スポーツや建築を高めていきたいと考えました。
田中:1期目の最後に一度辞任されています。その背景を教えてください。
山野:競輪場の場外車券売り場開設を巡る議論の中で、私は議会や市民の皆さんへの説明が十分でなく、軽率な行為をしてしまったと深く反省しています。そのため一度辞任し、出直し市長選に再出馬をしました。3年半の仕事ぶりを評価いただき当選、その後の取り組みを続けることができました。
市長になってからの最も大きな転機は、2011年に発生した東日本大震災です。金沢市も、震災廃棄物(がれき)の受け入れを表明しましたが、反対も多くありました。私は説明会に全て参加し、矢面に立ち、理路整然と説明し、最終的には議会も承認し、受け入れが実現しました。この時強く感じたのは、「しんどいことでもトップが前に出て、自分の言葉で語れば物事は成就できる」ということでした。
田中:任期中に、市役所のフリーアドレス化、ペーパーレス化を実現されています。実現に至るまでのプロセスをお聞かせください。
山野:金沢市役所の庁舎は古く、仕事のスペースが手狭でした。近隣のいくつかのビルのフロアも借りており、職員は雨の日に傘をさして行き来するような状況でした。幸い、本庁舎にほぼ隣接した地面が取得でき、そこに第二本庁舎を建てることになり、2013年頃から具体的に図面を描き始めました。その時、遅かれ早かれ役所もフリーアドレスが一般的になると考え、その考えを副市長や総務局長とも共有しました。
第二本庁舎基本コンセプトにも、フリーアドレスを前提にすることを明記。基本設計、実施設計を通して繰り返し説明しました。3年、4年、5年と時間をかけて説明する中で、その考えが浸透していき、議会、職員、報道、市民皆さんへの理解も進んできたと思います。
2020年5月、ゴールデンウイーク明けに第二本庁舎竣工、全面的にフリーアドレスを導入しました。コロナ禍と重なり、市民の来庁が少なく、職員も分散勤務だったため、移行は非常にスムーズに進みました。その成功事例を間近に見て、順次、第一本庁舎にも広げていきました。2020年度中に第一第二本庁舎すべてがフリーアドレスに移行できました。
新庁舎への引っ越しを機に執務室をフリーアドレス化。
田中:フリーアドレス化を進めるに当たって、ペーパーレス化やデジタル化などの取り組みも並行して行われたそうですね。業務の慣例を変更することは、容易なことではありません。どのように取り組まれたのでしょうか。
山野:業務の慣例を変えるポイントは、業務フローの上流から変えてしまうことです。ペーパーレス化では、上流工程である市長室や副市長室での打ち合わせに紙の使用を認めず、パソコン画面をモニターに映して共有することを徹底しました。上流でデジタルにしなくてはならないのに、準備などの下流工程を紙で進めるとスキャン作業などが必要となり、手間が増えてしまいます。その手間を惜しむ意識が、ペーパーレス化の浸透につながります。その結果、コピー枚数が大幅に削減され、約1,000万円の経費が節約できました。最終的には、すべての課でペーパーレス会議が実施されるようになりました。
上層部が関わる会議を原則ペーパーレス化することで浸透させていった。
田中:テレワークについてはいかがでしたか。
山野:環境は整備しましたが、地方自治体の特性を考慮して、無理に高い目標は設定しませんでした。重要なのは、必要な人が遠慮なく使えることです。育児中の職員などが「使いたい」と思った時に自然に使える文化をつくることを重視しました。制度を整備しても、使うことにためらいが生じるようでは意味がありません。だから「安心して利用できる」という雰囲気をつくることを第一に考えました。
電子決裁を原則としたことも大きな転換点でした。それまで紙で回していたものをデジタルに切り替えることで、スピードが向上し、事務の正確さも高まりました。また、RPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)やAI-OCR(人工知能を活用した文字認識技術)も積極的に導入しました。例えば、資産税課や保育幼稚園課では数百時間単位の業務削減につながりました。これは数字としても明確に表れており、職員の負担軽減に直結しています。
さらに、電子申請の仕組みも整備しました。最終的には延べ3万件を超える申請がオンラインで受け付けられるようになりました。これまで窓口で紙を扱っていた手続きが大幅にデジタル化され、市民にとっても利便性が向上したと考えています。
田中:これら推進がうまくいった要因は何でしょうか。
山野:DX推進の要は、トップの本気度、その見せ方、そして職員との信頼関係だと考えています。市長が「やる」と言っても、職員の理解がなければ何も進みません。そこで、繰り返し説明を行い、時間をかけて浸透させていくことが大切です。「何か新しいことをやる」というよりも、「これが当たり前だ」と感じてもらえるような形で進めることが、新しい仕組みへ移行する際のポイントです。ただ、その大前提は、普段の仕事の中で、トップと職員との信頼関係を構築しておくこと。ここがすべてではないでしょうか。
2021年には山野氏が発起人となり、行政デジタル化を牽引するリーダー職員の育成を目的とした
「デジタル推進リーダー研修」がスタート。参加者からは、「業務のあり方を見直す契機になった」という声や
「“スモールスタート”や“アジャイル思考”など、ツールの使い方に留まらない思考法を学べた」といった感想が寄せられている。
出所情報:https://kanazawa-city.note.jp/n/n4b28a8f9ca0b
また、10年以上続く事業は全て見直すと定めたことも、変革のポイントでした。民間なら売り上げが落ちたり人材が辞めたりすることをきっかけに変革の必要性を実感しますが、行政は気づきにくい面があります。そこで、時間で区切ることが必要だと思いました。どんなに根づいた事業でも、10年をめどに必ず見直し、場合によっては中止も検討する。それを徹底しました。変わらないと続けることはできない。これは、民間の仕事もまちづくりも同じではないでしょうか。人気の金沢マラソンなんかは5年で大幅に見直しをしました。人気があるからこそ、思い切って大幅に変えることができます。だって、失敗しても戻せばいいだけですから。
田中:山野さんのリーダーシップを振り返ると、特に「責任をとる」という概念が重要であり、それを行動で示されてきたと感じます。
山野:「責任をとる」という言葉は、「辞める」ことのように捉えられることも多いのですが、私は「問題を解決する」ことだと考えています。リーダーとしての責任とは、困難な状況に直面した際、自らが前に出て解決に向けて最後までやり抜くことにあるのではないでしょうか。
田中:山野さんは2022年2月に市長を退任した後、その年の10月にソフトバンクの戦略顧問に就任し、行政や大学のデジタル化を支援する業務を担当。2024年1月の能登半島地震の際には、ソフトバンクとして、いち早く必要な支援を行うなど、リーダーシップを発揮されています。
山野:ソフトバンク株式会社だけでなく関連会社、協力会社を含めた「オールソフトバンク」として、リソースを最大限活用し、通信網の早期復旧を進めるとともに、水や物資の確保といった支援を行いました。特に通信インフラの復旧は、被災地における最優先課題の一つで、これが迅速に進んだことで、住民の方々に安心感を届けることができたと考えています。後に住民の方々から「あの時の支援は非常に価値があった」と感謝され、私にとっても大きな励みとなりました。
避難所に通信インフラを無償で整備。通信には、スペース・エクスプロレーション・テクノロジーズ(通称スペースX)の衛星通信サービス「Starlink Business」(スターリンク・ビジネス)を活用
田中:改めてご自身のリーダーシップについて、どのように総括されますか。
山野:リーダーといえども一人では何もできません。少なくとも私レベルのリーダーではそうです。最も大事なのは、関わる人との信頼関係でしょう。信頼があれば、困難なことも進めることができますし、新しいことにも挑戦できます。金沢市のDX推進や能登半島地震の支援も、職員や同僚社員との信頼関係と理解があったからこそ実現できました。その上で、リーダーとして責任を持って最後までやりきることに尽きると思います。
(取材・TEXT:JBPRESS+稲垣/下原 PHOTO:Inoue Syuhei 企画・編集:野島光太郎)
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