『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』
──小国が分立していたドイツの統一に取り組み鉄血宰相の異名で知られるオットー・フォン・ビスマルク(1815-1898)の言葉です。
主に人口の変遷にまつわるデータを掘り起こし、近代的な国勢調査以前の歴史を暴こうとする歴史人口学。”フランス最大の知性”とも称されるエマニュエル・トッド(1951-)はその手法と思考力を武器にソ連崩壊や英国のEU離脱、リーマン・ショックといった時代の趨勢を「予言」してきました。
本書では、彼がソ連崩壊を25歳で予言するためにいかにデータを活用し、思考を巡らせたのかをご紹介。さらに、歴史人口学という「データ」を武器にした学問について解説いたします。
1976年に出版(邦訳は2012年)された『最後の転落』。その中で、当時25歳のトッドはミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴って1991年に生じることになるソ連の崩壊を予言しました。
そもそも、押さえておきたい事実が2つあります。
ひとつは、当時のソ連は前年終結したベトナム戦争でアメリカが敗北を喫し、また軍拡を続けるブレジネフ政権下という状況でまだまだ安定したシステムを構築しているという主張も根強かったこと。もうひとつは、当時ソ連から西側へ渡ってくる情報は隠ぺいや改ざんの含まれる不確かなものであったということです。
しかし、トッドはソビエト社会主義システム崩壊の兆しをはっきりと感じ取りました。そのきっかけは「乳児死亡率」です。食料供給や暖房・輸送システム、医療・保健条件などを直接に反映する乳児死亡率は、ソ連においても順調に低下していたにもかかわらず、1971年~1974年までの間上昇を続け、そしてとうとうそれ以降は発表されなくなったのです。
「これは東方において『何かが起こっている』明確な証拠だと、私には思われた」
引用元:エマニュエル・トッド (著), 石崎晴己 (翻訳), 中野茂 (翻訳)『最後の転落 〔ソ連崩壊のシナリオ〕 (日本語) 』藤原書店、2013、27p
食物の生産高や実質所得といった経済的な指標に比べ、シンプルで他国と比較しやすい人口統計。だからこそ、変造は難しく、またそれを見破ることは相対的に容易だと考えられるようです。
さらにトッドは1978年末の発表でソ連の男性平均寿命の減少に言及。そのパーセンテージの上昇は社会学的意味において自殺や殺人を含む変死、アルコール中毒、肝硬変といった死亡原因が要因となっていることを示すとし、さらに年代別の比較や経済状況といった諸要素と比較したうえで「自殺」「個人的暴力」「国家暴力」の増加を示唆しました。
歴史というマクロな視点から眺めることで、正確に情報が伝達されない国の状態を、一度も足を踏み入れることすらなく推察することを可能にする歴史人口学。
その始まりは、第一次世界大戦後のフランスだったといわれています。ルイ・アンリ(1911-1991)は国勢調査といった近代人口統計成立前の十七~十九世紀ごろフランスの人口指標を、協会に納められている記録簿──教区簿冊(Parish register)──をもとに解き明かす手法を確立しました。教区簿冊には洗礼、結婚、死者の埋葬の3つのイベントについて日付や年齢とともに牧師による日記風の記述がなされています。
このように専門機関によってきちんと管理されていない在野のデータから歴史を掘り起こそうという試みが歴史統計学の画期的なポイントでした。
日本にもキリスト教の取り締まりを目的として世帯ごとに構成人員や出生、死亡、結婚、移動などのデータが記録された宗門改帳が1638年~1872年まで、間や地域ごとに途切れはあるものの作成されており、日本の歴史人口学を切り開きトッドにも影響を与えた速水融(1929-2019)によって活用されました。
宗門改帳によって、江戸時代の平常年において都市の死亡率が高まる「都市アリ地獄説」、ヨーロッパ型の家畜を増やす方法ではなく労働集約・資本節約によって日本で起こった「勤勉革命」などの説が打ち立てられ、近世日本人の新たな姿が浮かび上がってきたのです。
筑摩書房の創立80周年記念出版として完全日本語オリジナルで刊行された『エマニュエル・トッドの思考地図』においてトッドはインプットから着想を得て予測に至るまでの思考の流れを詳らかにしました。
データと歴史が思考の軸となっていると語るトッドはデカルトから始まったフランスの合理主義に対し、自身は「かなりアングロサクソン的な経験主義に忠実な人間です」と語ります。これはつまり、「事実(ファクト)を何よりも重んじる立場」とのこと(※)。
※引用元:エマニュエルトッド (著), 大野 舞 (翻訳)『エマニュエル・トッドの思考地図』筑摩書房、2020、p79
2019年ベストセラーとなった『FACTFULNESS』のように、「まずはデータなどの事実をしっかりと観察する」という態度は、フェイクニュースやディープフェイクが問題視される昨今だからこそ見直されてきているようです。
トッドはインプットした情報を無意識下で攪拌することで、新たなアイディアが飛び出してくると語ります。それは例えばお風呂でゆっくりしているときにアイディアが浮かぶといった我々の日常の”あるある”にも重なるでしょう。
このような思考プロセスは特段変わったものではないと感じられるのではないでしょうか? 統計学にまつわる知識と「発見」を得るための膨大なインプット、数字と人間や社会を結びつける想像力などより地道な積み重ねが数々の予測を可能にしたようです。
それはプロフェッショナルの所業ではあるものの、我々にも実践可能なはず。データの力を個人や会社だけでなく、社会や歴史といったより大きな対象に当てはめることを考えると面白い学びが得られるかもしれません。
エマニュエル・トッドがソ連崩壊を予言した『最後の転落』を入り口に、歴史人口学やトッドの思考プロセスについてご紹介しました。歴史から教訓や戦術を学ぶ人々は昔から多く存在しますが、「人口」にまつわるデータを絡めることでより発見が広がるという視点はあまり共有されてこなかったのではないでしょうか。
ぜひ一度、データと歴史を使って人類や社会をみつめなおしてみてください。思ってもみない発見があるかもしれません。
【参考資料】
・エマニュエル・トッド (著), 石崎晴己 (翻訳), 中野茂 (翻訳)『最後の転落 〔ソ連崩壊のシナリオ〕 (日本語) 』藤原書店、2013
・速水 融 (著)『歴史人口学で見た日本 (文春新書) Kindle版』文藝春秋、2001
・エマニュエルトッド (著), 大野 舞 (翻訳)『エマニュエル・トッドの思考地図』筑摩書房、2020
・「歴史人口学」は第一次大戦後のフランスで始まった…┃毎日新聞
・鹿島茂「『最後の転落 〔ソ連崩壊のシナリオ〕』(藤原書店)」┃ALL REVIEWS
(宮田文机)
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