今年も梅雨の時期がやってきました。雨や台風ばかりで、梅雨は憂鬱な気分になるという方もいらっしゃるかと思います。しかし、江戸時代のころは、梅雨は文字通り死活問題でした。
徳川家康が江戸に幕府を開いたのは有名な話ですが、実は当時の江戸は現在の東京とはかけ離れた、広大な湿地帯でした。台風や雨の際は洪水が頻発したため、治水というのは重要なテーマだったのです。
そもそも、なぜ家康は江戸を選んだのでしょうか。先にも述べた通り、当時の江戸は広大な湿地帯で、当時の資料にも「いかにも粗相(そそう)」、「茅葺(かやぶき)の家、百ばかり」と書かれているほど辺境の地だったのです。しかし、それを補って余りある発展の可能性があることを、徳川家康は見抜いていました。
特に、広大な平野があったことに家康は魅力を感じていました。
実は、武家の古都と言われる鎌倉に幕府を開かなかった理由は、平野部が狭く、城下町の発展が限定される恐れがあったからだと言われています。また、利根川を始めとする巨大河川が存在したため、水路などの交通網整備ができることも、理由としてあげられます。当時の交通機関は船か馬だったので、水路網が整備しやすいことは、城下町を発展させるためには重要だったのです。
もちろん、江戸に幕府を開くことはメリットばかりではありませんでした。
低湿地帯は稲作もしにくい上に、一度大雨が降れば河川が氾濫し、流域一帯に甚大な洪水被害をもたらしました。このような水害を防ぐために、徳川幕府は堤防を作ることにしました。
ですが、当時は、現在のような最先端の技術はもちろんありません。徳川幕府は様々な知恵を絞ってなんとか強固な堤防を作らなくてはなりませんでした。では、幕府はどのような工夫をして強固な堤防を作ったのでしょうか。
現在まで残っている有名な堤防、隅田堤と日本堤を例にあげてみてみましょう。
隅田堤は現在では桜の名所として知られていますが、この桜は徳川4代将軍、徳川家綱の頃に植えられたものと言われています。このころの花見と言えば、たくさんの桜ではなく、1本の桜を鑑賞するのが当たり前でした。そのため、家綱の代では、桜は数本しか植えられていませんでした。これを増植させたのが、8代将軍徳川吉宗です。このころには100本もの桜が植えられていたと言われています。
なぜこの時代にわざわざ100本もの桜を植えたのでしょうか?
当時はコンクリートがありませんでしたので、堤防には圧密された土が必要不可欠でした。といっても、重機もない時代ですので、人の手で土を固めなければなりません。そこで、吉宗は花見客を呼び寄せ、多くの花見客がそこを歩くことで、堤防を固める、という策を思いついたのです。
錦絵でたのしむ江戸の名所(隅田堤) 国立国会図書館
もう一つの有名な堤防として、大川(現在の隅田川・当時の荒川)の洪水から江戸を防御するために建設された、日本堤があげられます。隅田堤が桜を植えて花見客を誘致したのに対して、日本堤は別の手法で堤防を固めたという説があります。
その手法に深い関わりがあるのが、吉原の移転です。吉原遊郭は、元々日本橋人形町にあったものですが、江戸幕府は、これを日本堤(現在の東京都台東区、当時は江戸の郊外)に移転させています。一般的に吉原の移転の理由は、江戸の風紀・秩序を維持するためと、明暦の大火後の区画整理を目的としたものであったとされています。
しかし、『日本史の謎は「地形」で解ける』筆者の竹村公太郎氏によると、当地に吉原遊郭を移転させることで、遊郭を訪れる客に日本堤の土手を歩き踏み固めさせる目的があったといいます。もしそれが本当に意図的なものだったとすれば、いずれにしても吉原へ足繁く通うであろう男性たちの力を、彼らに意識させることなく拝借する、という見事な戦略的手法だと言えるでしょう。
錦絵でたのしむ江戸の名所(日本堤) 国立国会図書館
もともと徳川家康は羽柴秀吉によって、領土を関東に追いやられたという経緯があります。
当時辺境の地であった関東に追いやられるというのは、ほとんどデメリットでしかありませんでした。しかし、ピンチをチャンスに変える徳川家康の手腕は、元建設省の官僚であった竹村氏公太郎氏ですら、「日本の歴史の中で最大の国土プランナー」と言わしめるほどです。実際、今の東京の繁栄があるのは、徳川家康のおかげと言っても過言ではありません。梅雨空が鬱々としているこの季節ですが、治水の歴史に思いを馳せて楽しんでいただけたならば幸甚です。
<参考文献>
・国立国会図書館ホームページ
・日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎
(岸田 英)
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