京都先端科学大学(以下、KUAS)は、2018年3月に日本電産株式会社(現・ニデック株式会社)代表取締役グローバルグループ代表の永守重信氏が理事長に就任したことで注目を集めた大学だ。
永守氏は、「日本の大学は学生が卒業後、社会に出て活躍できる素地を在学中に身につけられる教育システムになっておらず、世界で通用する実践力を備えた人材が育っていない現実がある」と痛感していた。この課題を解決するため学校経営に乗り出し、大学教育の抜本的な改革に取り組んでいる。
その改革の一環として、2020年に新たな工学部および工学研究科を開設。これにより、実践的かつ国際的な視野を持つエンジニアリング教育の提供を開始した。その成果として、2024年3月には新設された工学部の初めての卒業生を輩出した。
KUASの工学部には「大きく3つの特徴がある」と語るのは、同大学副学長で工学部教授の田畑修氏だ。同氏は、永守氏の構想を支え、工学部の立ち上げに深く関わった人物であり、キャップストーンプロジェクトを構想段階から手がけてきた。
京都先端科学大学 工学部 副学長 田畑修教授
「特徴の1つ目は、留学生を積極的に受け入れている点です。そのため、講義は全て英語で行われています。これは、グローバル社会に対応できる人材を育成するための重要な基盤です。2つ目は、工学に関する科目は全分野にわたって網羅的に教える点です。これからのシステムは、単一の分野にとどまらず、多様な分野の技術の総和として成り立つものです。そのため、多彩な分野に通じた人材を育てることを目指しています」(田畑氏)
そして3つ目にして最大の特徴が、今回取り上げる「キャップストーンプロジェクト」である。このプロジェクトは、学生が工学部で学習・研究してきた成果を基盤に、参画企業と協働しながら、実際のビジネス上の課題に取り組むプログラムだ。
「学びをどう活用し、実際のビジネス現場で価値を創出していくのか。その取り組みの中で理論と実践を結びつけていきます。この経験を通じて、学生は学び自体を深めると同時に自己成長を実感し、社会の中での自分の可能性を体験することができます」(田畑氏)
キャップストーンプロジェクト:企業が抱える技術的な課題を学生に提示し、チーム単位で企業と協働しながらプロジェクトを進めていくことで、リアルな体験学習ができる京都先端科学大学の3年生・4年生対象に実施される教育カリキュラム(キーストーンは3年生のキャップストーンプロジェクトである。)
こうしたプロジェクトは、海外、特にアメリカの工学系大学のトップスクールでは、ほぼ標準的に行われている。田畑氏もエジプトで科学技術大学の設立に携わっていた際に、現地の私立大学で同様のプロジェクトが実施されているのを目の当たりにした。同氏はその経験を振り返り、「これからの工学教育では、実際の課題解決を通じて知識を深めるというアプローチが世界的なトレンドになる」と確信を得たという。
では、KUASのキャップストーンプロジェクトでは、実際にどのような取り組みが行われているのか。2024年度の参加メンバーの中から、デロイト トーマツ コンサルティング合同会社(以下、デロイト トーマツ)と協働した学生チームに話を伺った。同チームは、他のチームと比べても特にユニークな課題に挑戦した。
他のチームでは、参画企業から最初にビジネス上の具体的な課題が提示され、それを学生が分析し、解決策を模索しながらソリューションを構築していくという流れで進行した。しかし、デロイト トーマツのチームは、そのアプローチが一味違っていた。具体的な課題の提示はなく、「課題の抽出」からスタートすることを求められたのである。
デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 SC & NO シニアスペシャリスト・リード ⼤地宏明氏
デロイト トーマツ側のプロジェクト担当者で、同社SC & NO シニアスペシャリスト・リードの⼤地宏明氏は、その狙いについてこう語る。「最初から『これをやりなさい』と課題を与えられるのではなく、自分たちで課題をクリエートするところから始めることで、プロジェクトの真の意図が達成される」。
デロイト トーマツは、2022年度のキャップストーンプロジェクト初回から3年連続で参画してきた。これまでの取り組みを振り返る中で、ある懸念が浮上していた。それは、「与えられた課題を解決することでも確かに達成感を得ることはできるが、それが本当に社会や企業の役に立っているのか、という疑問が学生たちの中に残るのではないか」というものだった。そこで、「課題が見えないこと自体を課題とする」という切り口に至ったという。
さて、デロイト トーマツが提示した新しい「お題」を、実際に参加した学生メンバーはどのように受け止めたのだろうか。チームリーダーを務めた小坂井雅矢氏は、「課題を探すという点が、非常に大変だった」と振り返る。
木村優太氏、露崎健志郎氏、小坂井雅矢氏、スタンリ・アレキサンダー・レイ氏、後藤佑太氏
「他チームのプロジェクトは、初めから課題が明確化されていて、『どんなものをつくるか』という部分からスタートできました。しかし私たちの場合は、まず企業にインタビューを行ったり、インターネットで情報を収集したりして、『そもそも何が必要なのか』を明らかにするところから始める必要がありました。未体験のことばかりで戸惑いも多かったのですが、貴重な体験になりました」(小坂井氏)
この「未体験の苦労」こそが、まさに田畑氏が冒頭で語った「社会に出てからの可能性を、大学にいるうちに体験する」というキャップストーンプロジェクトの意義そのものであるといえる。
チームメンバーの1人である後藤佑太氏も、「企業から具体的な課題が出されない中で、自分たちでそのイメージを一からつくり出すのは本当に大変でした。でも、この『何もない状態から考える』という経験は、社会に出てから必ず役に立つと思っています」と、今回の取り組みをポジティブに捉えている。
今回は、通常のプロジェクトでは得られない特別な経験ができたという点で、チームメンバーの意見は一致している。例えば露崎健志郎氏は、「最初に課題が明確に示されないことに、正直言って戸惑いもありました。でも、それを『自由度の高さ』と捉え直したことで、チーム内で活発な意見交換が行われ、さまざまなアイデアが生まれていきました」と、成果を語る。
また最初から課題が提示されている場合は、そのゴールもある程度予測できるため、全体のプロセスは予定調和的になりがちである。それに対し、課題の抽出からスタートするアプローチは、スタート地点もゴールも不明瞭な状態からの進行となる。これに対して、同じくチームメンバーの木村優太氏は、「スタートもゴールも全く見えていない状況で進めるため、チーム内で話し合いながら進める必要がありました。順調に進む時もあれば、意見が対立してなかなか前に進まない局面もありました。この経験は、将来就職した時に必ず役立つと感じています」と振り返り、都度交わされた本気の議論に手応えを感じていると語った。
一方で、自ら課題を考えるというプロセスに加え、企業との協働作業を貴重な経験として振り返るのは、チームメンバーのスタンリ・アレキサンダー・レイ氏である。同氏も、与えられた課題がない状況でプロジェクトの方向性が曖昧だったことについて、最初は不安を感じていたと明かす。
「でも実際にアンケート調査を行い、デロイト トーマツの方々と相談を重ねていくうちに、次第にプロジェクトの方向性が見えていきました。そして最終的には、とても良いプラットフォームとソフトウエアをつくり上げることができたと思っています」(レイ氏)
1月15日にはキャップストーンプロジェクト2024年度最終発表会を開催が開催。最終発表会企業の関係者など約140人の見学者が参加し、全50チームの学生が来場した見学者に説明する形式で実施された。
指導に当たった教員は、このチームの取り組みをどのように評価しているのだろうか。このチームを担当した工学部機械電気システム工学科講師のマーティン・ゼラ氏は、今回のプロジェクトを「必要性の調査」と「ツールの開発と評価」という2つのプロジェクトを統合した、包括的なアプローチだったと定義している。その上で、学生たちがこの課題に挑み、見事にやり遂げたことに対して深い感銘を受けたと語る。
「キャップストーンプロジェクトを始め、本学のこうしたカリキュラムでは、学生たちがさまざまな企業のエンジニアと実際に関わりを持つことに重点を置いています。講義で知識を学ぶことももちろん重要ですが、それ以上に、知識を実際にどう活用するかを会得することが大切です。その意味でも、彼らは十分に期待に応えてくれました」(ゼラ氏)
京都先端科学大学 工学部機械電気システム工学科講師 マーティン・ゼラ氏
もう1つの評価ポイントとして、ゼラ氏は「インターンシップとの違い」を挙げる。一般的な企業のインターンシップでは、課題の内容だけでなく、その解決に向けた考え方や手順までもがある程度提示されることが多い。しかし、今回のケースでは、学生が自分たち自身でプロジェクトの進め方を模索し、課題に取り組む方法を学んだ点が、インターンシップとは一線を画する成果だったという。
「その点でも、今回のデロイト トーマツとのプロジェクトは、非常にユニークだったと考えています。学生たちは単にメインのパートナー企業であるデロイト トーマツだけに関わるのではなく、さまざまな調査を通じて、他の多くの企業とも接点を持つ経験を積むことができました」(ゼラ氏)
2025年1月15日には、成果を「課題解決の提案」として報告する「2024年度キャップストーンプロジェクト最終発表会」が開催された。この発表会では、プロジェクト参画企業32社から与えられた50個の課題に対して、工学部4年生20チーム(92人)、3年生30チーム(143人)がそれぞれの成果を発表した。客席には参画企業をはじめとする約140人の企業関係者が来場し、学生の提案に耳を傾けた。
新たな産学連携による人材育成のモデルケースとして、3年間にわたり着実に成果を出してきたキャップストーンプロジェクトだが、今後はどのような発展的展開を目指しているのだろうか。指導担当教員としてゼラ氏は、すでに来年度のプロジェクトの準備も始まっており、大学側では前年度からの継続プロジェクトや、新規課題の提案などの調整を進めていると明かす。
キャップストーン最終発表会のAwards ceremonyに参加する大地氏とゼラ氏
「本プロジェクトは、どの企業とパートナーシップを結ぶかによって、その内容や方向性が大きく変わるため、具体的な計画が固まるのはもう少し先になります。ただし、全体的な方向としては、より多くの企業に参加いただけるよう働きかけており、プロジェクトをさらにスケーラブルに発展させる可能性についても、企業や学生とともに探求していきたいと考えています」(ゼラ氏)
一方、パートナーとして参画してきたデロイト トーマツは、中長期的な展望も含めて3つのプランを描いていると大地氏は紹介する。その1つが「製造業との三位一体のチーム構成」である。「デロイト トーマツが学生と組む場合、どうしてもコンサルティング的なアプローチに偏りがちです。それを補完する形で製造業の企業にも加わってもらい、実際に何かをつくるといったコラボレーションに発展させたいと考えています」。
2つ目のプランは、今回のプロジェクトで協働した学生を、卒業後にデロイト トーマツのサポートエンジニアとして迎え入れることだ。「これは、この1年間で学生たちの実力や熱意を間近で見てきたからこそ、ぜひ彼らと一緒に仕事をしてみたいという私自身の希望でもあります」。そして3つ目は、このプロジェクトで使用したデータ可視化ツール「MotionBoard」に関連した展望である。今回のご縁をきっかけに、ぜひウイングアーク1stにも、パートナーとして参画していただけることを期待しています」(大地氏)
最後に田畑氏は、キャップストーンプロジェクトを通じてKUASの人材育成の取り組みを広く知ってもらいたいと語る。そして、特に同大学の留学生が日本企業で活躍できる場を提供してほしいと強く訴える。
田畑氏によれば、日本に来る留学生は毎年30~40万人に及ぶものの、卒業後に日本に残るのはそのうち約4割に過ぎないという。この現状について、田畑氏は日本企業側の受け入れ態勢が十分に整っていないことが大きな要因だと指摘する。例えば、日本語能力試験(JLPT)の最上位であるN1レベルを要求する企業が多く、これが留学生の日本企業就職の大きな壁になっている。
参照元:独立行政法人日本学生支援機構(JASSO):2024(令和6)年度外国人留学生在籍状況調査結果 https://www.studyinjapan.go.jp/ja/statistics/enrollment/data/2504301000.html
「これは、日本の人材問題を解決する上で大きな障壁です。KUASでは、留学生が日本語の日常会話を理解できるN3レベルを達成するための日本語修得カリキュラムを整え、彼らが日本での就業に必要な日本語の基礎力を身につけられるようサポートしています。N3レベルでも、日本のエンジニアやビジネスパーソンと日常業務に必要な会話は十分に可能です。それに加えて、高い工学系の専門力を持ち、さらに英語も話せるというスキルセットを兼ね備えた人材がここにいます。人材不足を嘆く前に、ここに優秀な学生がいるという事実を知っていただきたい。そして彼らを採用することが、結果的に日本の人材問題の解決につながると信じています」(田畑氏)
日本企業と優れた技術人材を結びつける。キャップストーンプロジェクトは、まさにその「最初のコンタクトポイント」創出の場でもある。今後、2025年度以降のキャップストーンプロジェクトがどのように展開していくのか。産学連携の新たなモデルとして、この取り組みの未来に期待が寄せられている。
(取材・TEXT:JBPRESS+稲垣 PHOTO:倉本あかり 編集:野島光太郎)
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