About us データのじかんとは?
過去3回にわたり、日本社会のさまざまな局面に蔓延する閉塞感について考察してきました。閉塞感を引き起こしている原因として、第1回では若者の自己効力感の欠如について、第2回では母親たちに押し付けられる「序列化されたダイバーシティ」について分析しました。そして、前回はそのいずれとも密接なつながりを持つ学校教育の現場でも「序列化されたダイバーシティ」が「発達障害」を顕在化させ、特別支援学級の増加により「分離」が加速したり、教員たちを疲弊させたりしている現状について取り上げました。
最終回となる今回は、日本社会に生きる私たちを束縛している閉塞感を少しでも軽くするための視座について考えてみたいと思います。それは、オーストリアの思想家であり、文明批評家でもあるイヴァン・イリイチが提唱した「コンヴィヴィアリティ」という概念にヒントを見出せます。
第1回:新卒就職率97.3%なのに息苦しい…希望が見えない若者たちを取り巻く閉塞感
第2回:「ダイバーシティ」が閉塞感を加速する?母親たちが子育てを楽しめない理由とは?
第3回:D&Iと逆行する学校教育—特別支援学級の増加で加速する「分離」の背景とは?
イヴァン・イリイチはもともとカトリックの司祭でしたが、のちにローマカトリックを「独善的・官僚制的・排外主義的体質」と批判し、教会活動から離れた後、1973年に『コンヴィヴィアリティのための道具』※を発表しました。近年、メディアアーティストの落合陽一氏やデザインエンジニアの緒方壽人氏が言及したことで、「コンヴィヴィリアリティ」と言う言葉を耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれません。では、イリイチが提唱する「コンヴィヴィアリティ」とはどんな概念なのでしょうか?
※日本版にはいくつかの訳書がありますが、本記事では『コンヴィヴィリアリティのための道具』(渡辺京二・渡辺梨佐訳、ちくま学芸文庫、2015年)を参照、引用しています。
「コンヴィヴィアリティ」は日本語では「自立共生」と訳されますが、イリイチによると、それは「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすもの」(p40)です。また、「自立共生的な社会は他者から操作されることの最も少ない道具によって、すべての成員に最大限に自律的な行動を許すように構想されるべき」(p58)としています。
ここでイリイチが述べる「道具」とは、テクノロジーが発達することによって生み出される機械だけでなく、「”教育”とか”健康”とか”知識”とか”意思決定”とかを生み出す触知し得ない商品の生産システム」(p58)も含まれます。つまり、過去3回の記事で言及してきた閉塞感を生み出す場としての「企業」や「学校」、「医療制度」などもイリイチがいう「道具」に含まれると言ってよいでしょう。
「道具」は社会にとって、必要不可欠で本質的なものですが、一定の限界を越えると、拡大の一途をたどり、逆に「道具」の使い手だったはずの人間を依存させ、支配するようになります。
その例として分かりやすいのはインターネットでしょう。そもそも、人間が情報をやりとりしたり、共有したり、調査したりするための「道具」として登場したインターネットでしたが、いまやインターネットなしでは社会生活は成り立ちません。私たちの多くが逆にインターネットに依存しており、インターネットを介してやりとりされるデータに人間が翻弄されています。
インターネットやSNSをどれだけ使用するかによって、若者たちの自己肯定感に影響があることはさまざまな調査によって裏付けられています。また、本来インターネットがなければ比較の対象にならなかった人たちと広範囲につながることが閉塞感を生み出していることは肌感覚としても分かります。
しかし、イリイチが「コンヴィヴィアリティ」を提唱したのは今から半世紀も前であり、インターネットは一般的ではありませんでしたし、彼が主張したかったのはもっと本質的な問題でした。
彼はこう言います。
「大規模な道具が人々の代わりにしてくれる何か”よりよい”こととひき換えに、人々が、自分の力とおたがいの力でできることを行う生まれつきの能力を放棄するとき、根元的独占が成立する。根元的独占は価値の産業主義的制度化の反映である。それは個人的な対応を、標準的商品のパッケージに置き換える」(p126)
ここから分かるように、「道具」があるべき位置にとどまらず拡大することで人間本来の営みである学ぶこと、働くことが消費される対象になるだけでなく、結婚や出産、病気や死さえもマネジメントされ、最適化される社会になることに彼は警鐘を鳴らしていました。
イリイチは「道具」がコンヴィヴィアリティ(自立共生)のために機能することが本来の形だと説きました。「道具」の有用性を認めながらも、「道具」が決して私たちの「主人」にならないように、絶妙なバランスを保ち続けなければならない、としたのです。
それはちょうど私たちがバランスを保ちながら、生き生きと自転車をこぐようなものです。移動手段という自転車本来の道具としての目的を十分発揮させつつも、ハンドルを握り、ペダルをこぐのはあくまでも私たちであるべきなのです。
しかし、過去3回の記事で考察してきたのは、いずれも本来の「道具」に逆に支配されるようになった人々の悲哀でした。
第1回で取り上げたのは、就職率97.3%であるにもかかわらず息苦しさを感じていた若者たちでした。それは本来人間の喜びであるはずの「働くこと」を奪われ、労働市場で交換される「仕事」を与えられる対象に変容してしまった若者たちの姿でした。無事に就職しても、「仕事」という商品は企業システムの中に組み込まれ、自分が果たして何かの役に立っているのか、自分を信じていいのかが分からないため、将来を切り開いていく力も沸いてきません。
第2回では、生産性や効率を重視する社会の中で「ダイバーシティ」は強い組織作りやマネジメント理論としてばかり取り上げられ、「女性」や「母親」であることすら企業ブランド向上の道具として利用される社会について考察しました。
「ダイバーシティ」もイリイチのいう「コンヴィヴィアリティのための道具」であるべきですが、逆に「序列化されたダイバーシティ」は女性を支配しています。また、出産や子育てすらも商品化されているため、母親は高学歴で、たくさんのお金を稼げる子どもを育てなければ「失敗」という烙印を押されることを恐れています。
第3回では、本来「学ぶ」という主体的行為を行うべき場所であるはずが、「教育」という「サービス」を提供をする場に変容してしまった学校について考察しました。高度に効率化された社会にとって有用な労働力を提供できないと思われる子どもたちが早くから「発達障害」にカテゴライズされ、一人歩きする「D&I」によって支配された学校現場では、やむなく支援学級を増設するという形で対応せざるを得ない現状について取り上げました。
共通しているのは、「D&Iも自立共生のための道具である」という視点の欠如です。本来倫理的価値をもっていた概念が、組織マネジメントの文脈で取り上げられるようになり、肥大化し、最終的には人間の尊厳そのものをのみ込んでしまっているのが、社会の閉塞感の根底にあるのではないでしょうか。
では、企業や学校、医療やそれと結びつく「D&I」などの道具と適切な距離を保つにはどうしたら良いのでしょうか?
イリイチは均衡を保つためには「道具の過剰成長」を示す6つの脅威を見抜く必要があるとします。ここですべてを取り上げることはしませんが、イリイチが言及した中の1つに「欲求不満」があります。
つまり、道具があるべき居場所を越えて過剰成長し、私たちを支配するようになる前に「最適な範囲を逸脱する」段階、バランスが崩れる可能性は「欲求不満」として現れてくるとします。イリイチはその早期発見を促す研究の必要性を提言しますが、本稿ではあくまでも視点を提供するにとどめたいと思います。
ただ、過去3回で取り上げたデータを見るにつけ、すでに若者も、母親も、教育現場も「欲求不満」を抱えていると言わざるをえませんし、それが閉塞感という形で表れているのではないかと思います。そのことがすでに私たちが「道具」にのみ込まれつつあることを示していますし、それゆえにきちんと閉塞感に向き合うべき時に来ている証拠なのです。
「D&I」が企業経営やマネジメント理論の文脈で取り上げられてきたため、人種や性別、背景にかかわらず「役に立つ」人材を適材適所に登用するという帰結が必然的です。確かに「D&I」が企業の業績や成績を上げるための「道具」として一定の有用性があることは確かです。
しかし、「コンヴィヴィアリティ」の視点から見ると、私たちはシステムの中に組み込まれ、機能的に「役立つ」ためだけに存在しているわけではありません。「個的自由」を与えられており、「他者から操作されること」をできるだけ減らし、「最大限に自律的な行動」を許されるべきです。
何かのために役立つだけの「商品」として自分や自分の行為を交換するのを時々やめること、また「自立」した個として他者と「共生」するという「コンヴィヴィアリティ」の視点を持つだけでも私たちの日々の振る舞いは変わってくるのかもしれません。
著者:河合良成
2008年より中国に渡航、10年にわたり大学などで教鞭を取り、中国文化や市況への造詣が深い。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。現在は福岡在住、主に翻訳者、ライターとして活動中。
(TEXT:河合良成 編集:藤冨啓之)
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