いつの時代にも新しい物が好きな人はいるものですが、第11代薩摩藩主・島津斉彬もその1人だったそうです。今風にいえばガジェット好きなお殿さまで、日本で最初に写真撮影された人物として知られています。
島津斉彬は非常に進歩的でテクノロジーへの興味関心が高かったことで知られており、反射炉や溶鉱炉の建設、ガラス、ガス灯の製造などを進めました。
日本にカメラが入ってきたのは1848年のこと。
島津斉彬を撮影したカメラは、フランス人のルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre)が考案した「ダゲレオタイプ」と呼ばれる最新タイプだったそうです。ヨウ化銀の金属板に撮影した画像を写すカメラで、現像には水銀蒸気を使い、塩の溶液で画像を定着させました。
このタイプの写真を「銀版写真」と呼びます。画像を銀版に定着させるには数十分かかったそうで、撮影中モデルは動き回ることができませんでした。
島津斉彬の写真が撮られたのは、安政4年9月16日〜17日のことだったそうです。
これは現在の暦に直すと、1857年11月2日〜3日。なお、島津斉彬はカメラに非常に興味を持ち、自分でも写真撮影を行いました。いまでも島津斉彬が撮影した城の写真が残っています。
カメラといえば、いまでこそ「写真を撮る機械」と思われていますが、写真とカメラは別々に進化してきた技術です。開発されたのはカメラの方が古く、写真技術は近世になってから発展しました。
カメラの基本構造である「箱のなかに風景を投影する」というピンホールの原理は、実は古代ギリシャや中国ではよく知られていました。その原理は、窓のない暗い部屋の壁に1点の小さな穴(ピンホール)を開けて光を集め、その光線を反対側の壁に投影すると、外の風景がさかさまになって写るというものです。
10世紀〜11世紀にかけて活躍したイラン出身の科学者イブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haitham)は、太陽の日食を観測するため、この原理を応用して「カメラ・オブスクラ」というピンホールカメラを開発しました。この時期のカメラは大型の小部屋やテントタイプで、人間がなかに入って壁に投影された画像を見るものだったそうです。
「見たままの風景が画像となって映し出される」という仕組みに、多くの画家や芸術家が関心を寄せました。かのレオナルド・ダ・ヴィンチもこのカメラ・オブスクラを活用し、写生をしたといわれています。
カメラのテクノロジーが進化するにつれ、部屋やテントのようなカメラが小型化され、17世紀半ばには持ち運べるように改良されました。つまり、約600年ほどかけて、ようやくモバイル化が進んだわけです。さかさまに投影された画像の上下を反転させるため、鏡を使用するようにもなりました。ただしそのころのカメラは、像を投影することはできるものの、それを定着させることはできませんでした。
これに対し、写真技術が発展したのは19世紀以降です。写真のルーツを探ると、カメラの発展よりもむしろ印刷技術の発展によって生まれたものといえるでしょう。
世界で初めてカメラを使った写真撮影を行ったのは、フランス人の発明家、ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce)です。
もともと大量印刷技術に関心があったニエプスは、化学反応を利用した石版印刷(1798年に登場)に触発され、光で画像を定着させる技術の開発に取り組んでいました。石版印刷、いわゆるリトグラフは、石灰石の上にクレヨンで描画した線を化学処理することで、印刷原板をつくる技術です。ニエプスは、パレスチナ産のアスファルトが太陽光に当たると硬化して油溶性が低下する性質に目を付け、このアスファルトを利用した版画制作を進めます。
この過程で、光線を使って画像を投影するカメラ・オブスクラと組み合わせるアイディアを思いつき、1826〜1827年にかけて、カメラ・オブスクラを使った写真撮影を試みます。
世界最初の風景写真は、ニエプスが撮影した「ル・グラの窓からの眺め」です。ただし光の露出時間は数時間〜数十時間もかかるため、実用性には乏しいものだったそうです。これを改良したのがニエプスの技術開発パートナーだったダゲールでした。ダゲレオタイプの撮影は、前述したとおり数十分かかるとはいえ、写真技術の大きなイノベーションであることは間違いありません。しかし、残念ながらニエプス本人は、ダゲレオタイプ完成前に脳卒中でこの世を去り、このイノベーションを目の当たりにすることはありませんでした。
その後も写真感光・現像の技術改革は進みます。
1871年にはイギリス人のリチャード・リーチ・マドックス(Richard Leach Maddox)が、硝酸銀溶液とゼラチンを加えたものをガラス板に塗布したガラス乾板を開発し、光の感度を大きく向上させました。一般的な素材を使って製造できる乾板の登場により、撮影には既製品の乾板を使うようになり、カメラおよび写真が一気に普及します。
写真が普及するようになり、写し撮られた現実世界の映像が世の中に拡散するようになりました。1890年にはアメリカ人の新聞記者、ジェイコブ・リース(Jacob August Riis)が、米国スラム街を撮影した写真集を出版するなど、人々の生の姿や生き様が報道されるようになりました。
世界初のデジタルカメラは、1975年にイーストマン・コダックが開発しました。もはや画像を投影する銀版やフィルムは不要で、カメラのレンズが捉えた風景はデジタルデータとして保存されるようになっています。
そんなデジタルカメラも、いまや携帯電話(スマートフォン)に搭載されたカメラ機能に押され気味です。
実は携帯電話にカメラ機能が搭載されたのは意外と最近で、1999年〜2000年にかけてのことでした。わずか20年しか経っていませんが、いまやちょっとした外出時や日常生活のなかで携帯電話カメラの撮影が当たり前となり、その画像がInstagramなどを通じて世界中に拡散されるようになっています。
“A picture is worth a thousand words”という英語のことわざがありますが、これは「一枚の写真は1000の言葉に値する」という意味で、この言葉通り、写真というデータは1000の単語を使って何かを説明しているにも等しく、最近では、写真に含まれている情報を読み取る技術も飛躍的に向上していきており、視覚的なデータを上手に活用することも少しずつできるようになってきています。将来的には画像を使った情報伝達が、文字による伝達スピードよりも速くなる可能性も十分にあります。
現像された写真を郵便で送っていた時代から、パソコン上からのメール送信、さらにSNS上での共有など、撮影された画像の共有方法も目まぐるしく変わっています。次の時代がどのような形で写真を共有するのかは想像もつきませんが、昔の家族写真を眺めては、過ぎ去った日々を懐かしく思い出す気持ちはおそらくいつの時代も同じなのではないでしょうか?
(岩崎史絵)
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