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楠目氏は、1998年に東京海上グループの情報システム会社でシステムエンジニアのキャリアをスタートした。その後、設計や要件定義の上流工程にシフトし、システム刷新の企画や大規模プロジェクトのプロジェクトマネジャー、経営企画業務などを経験。2013年に同社へ出向し、現在はIT企画部次長として組織運営や品質向上・ガバナンスなど情報システム関連のさまざまな取り組みを推進している。同氏は、ある課題感から組織の変革に積極的に関わるようになった。
「ワークショップなどで社員がアイデアを創出するものの、大半は事業化に至らず終わってしまう。その現状を変えるためには、構想段階からITの知見がある人材が関わり、『このアイデアを実現するシステムは何か』『プロジェクトにはいくらかかるか』といった実現に向けた具体的な検討につなげる必要があります。『みんなで考えて終わり』にしないために、積極的に関与することを決意したのです」

こうした意識の背景には、保険業界の厳しい経営環境と、同社が置かれた状況があった。2009年に東京海上グループのネット損保として設立された同社は、先発企業が圧倒的なシェアを持つ中、後発として苦戦。懸命の努力が数字に結びつかないまま「黒字化するまでやりたいことを我慢する」という縮小均衡思考に陥り、新しい挑戦ができない閉塞感が社内に漂っていたという。楠目氏の決意には、この窮地を打開したいという強い思いがあった。
大きな転機が訪れたのは2018年5月だった。経営陣が社員に向けて「私たちらしさとは何か」「お客さまにどの点で評価されるのか」「今からできること、今やるべきことは何か」という3つの問いを投げかけた。この問いは、社員の視点を目先から未来へと切り替え、視野を広げるきっかけとなった。
この問いに答えるために立ち上げられたのが「ありたい姿プロジェクト」だ。課長以上が集まった会議で社長がこのプロジェクトの説明を行った際、楠目氏は即座に「事務局をやります」と手を挙げた。立ち上げ時の事務局メンバーは5人、強い危機感を共有していた。
同プロジェクトでは、2018年6月から10月にかけて4日間の役員インタビュー、3週間にわたる全拠点の現場視察と計24人に及ぶ社員へのインタビュー、さらには各部署の代表17人による2日間のワークショップが実施された。これらを通じて190本を超えるアイデアが生み出され、それがその後の具体的なシステム構想につながる土台となった。

最終的にまとめられた「ありたい姿」は、非常にシンプルな内容だった。
「お客さま一人ひとりの価値観・こだわりに寄り添い、ストレスなく、ぴったりの安心を、クルー全員がデザイナーとなり組織一体となってお届けします。お客さまにとって心地よい塩梅でのつながりは、身近なパートナーとしての信頼を獲得し、お客さまのカーライフを陰で支え続けます。」
ここにはテクノロジーも、同社が現在ミッションにしている「事故のない世界そのものを、お客さまと共創する。」も含まれていない。しかし楠目氏は、「これが、この会社の原点となる価値だと確信しています」と語る。
こうした変革から生まれた具体的な成果が、新しい自動車保険「&e」である。この新しい商品を開発するプロセスでは、「特にDXは意識していなかった」と楠目氏は明かす。
「デジタルは何かを実現する手段としては非常に有効ですが、決してその導入が目的ではありません。ありたい姿プロジェクトの際に念頭にあったのは、まず『データを集める』ということです。事故対応やコールセンターの人たちが、お客さまを理解するために部門横断で同じ情報を持ち、みんなで同じデータを見ながらお客さま対応ができるようにしたい。そのために、まずはさまざまな業務プロセスのデータを集約することになりました」

社員全員が主役となり、テクノロジーを活用する組織への進化(楠目氏資料より)
もう1つの注目すべき動きは、「集めたデータの活用」だった。自動車保険では新規契約から1年後の更新まで、顧客との接点がほとんどないことが多い。「でも、お客さまのデータを活用することで、お客さまに対してもっとできることがあるのではないかと考えました。このとき、データを『集める動き』と『活用する動き』が同時に進行していったことが、結果的に私たちのDXになりました」と楠目氏は話す。
2019年10月には、&eのシステム開発がスタートしたが、これは保険システムの開発の常識を覆す、前代未聞のチャレンジでもあった。保険システムの全面刷新として、顧客接点から基幹システムまでシステムの全てをフルクラウド化するというのだ。
「非常に難易度の高いプロジェクトだったので、『特別なことをするのではなく、やるべきことを徹底的にやる』をモットーに、みんなで走りながらつくり上げていった」と楠目氏は振り返る。その中でも重要だったのは、「やることとやらないことをはっきりさせる」という方針だった。顧客接点となるWebやスマホアプリなどフロント領域は独自開発でCXにこだわり、社内システムやデータ分析基盤はSaaSやクラウドを徹底活用。Guidewire、Salesforceを中心に、30以上の外部サービスを利用した。

「SaaSやパッケージを使うために、業務側の要望とのギャップが生じた場合も、従来のようにカスタマイズで解決するのではなく、根気強く解決策を全員で考えました」
日本の企業の場合、「自分たちの業務は特別だから」とカスタマイズに走る傾向が強い。確かにその場の課題の解決にはなるが、中長期的にはシステムが複雑になる、バージョンアップが困難になるなどの課題が生じかねない。そしてカスタマイズが増えるほど、開発期間もその分必要となる。その意味でも、楠目氏はOOTB(Out of The Box)*を貫くことで、スケジュールを守り抜いたと語る。
*ソフトウエアに特別な設定やカスタマイズを加えず、そのまま利用できる状態のこと
プロジェクトは経営・ビジネス・ITの3者連携で進め、週次のステアリングコミッティで透明度の高い運営を心がけた。2021年4月には、初期リリースとして社員モニターを開始。フィードバックをもとに品質改善を行い、同年11月に正式リリース(一般公開)した。
&eのリリースと同時に、組織の在り方も大きく変わり始めた。2021年4月には、データ活用の統括部署として「ビジネスアナリティクス部」を新設。特徴的なのはメンバーを社内公募して集めた点だ。事故対応やコールセンターなど、それまで業務の第一線に携わっていたメンバーが、自発的にデータ分析などのITを学ぶ。これによってビジネストランスレーターのような翻訳者を介さずとも、ビジネスとテクノロジーが一体となった推進ができているという。
もう1つの新しい文化は、2021年12月から本格導入されたアジャイル開発だ。具体的には、スマホアプリの領域でスクラムチームを結成し、アジャイル開発の認定資格を取得したプロダクトオーナーとスクラムマスターがペアを組んでチームをリードした。これが成功事例となり、ビジネス部門、IT部門、パートナー企業の全員がアジャイルを学び、「お客さまの体験」をスピーディーに改善する文化を根づかせていったという。
「事故のない世界を実現するためにはどうすればいいのか。そのためにお客さまにどのような機能を提供し、アプリを日常的に使っていただくか。常にこれを意識し、スクラムチームは3週間のスプリントで改善を続けています」
CRMシステムもクラウド上の標準パッケージ活用に移行、IT開発を必要とせずビジネス部門で対応できる範囲が広がった。また、SaaS製品の学習やカスタマーサクセスの活用により、部門横断でビジネス課題の解決を模索する動きが進んでいるという。
「OOTBで構築したCRMシステムにお客さま情報を集約したことで、AIやデータ活用の強化にも柔軟に対応できています」

「ありたい姿プロジェクト」のスタートから約7年、&e立ち上げなどを通じて大きな変革を肌で感じてきた楠目氏は、「以前は閉塞感があったが、今では『やりたい』で終わらず、部門横断でチャレンジできる体制を構築できています。この結果、先に挙げたような取り組み、社員一人ひとりの物語へと変わってきたことを感じています。うまくいかないことや失敗もありますが、そのようなチャレンジが日常的に行われていることこそが最大の成果です」と語る。
現場の社員からも「今度、こういうことをやってみたい」と改善提案が上がってくるようになった。プロジェクトで掲げた、「一人ひとりが『デザイナー』として主体的に動く」という理想が現実になりつつある。
では、もし私たちが楠目氏が進めてきたような変革にチャレンジするとしたら、どのような点に気をつければよいだろうか。楠目氏は、「当社のような小さな組織でも、ITやデータを使ってビジネスを変えることができます。ただしそれには、小さい組織の強みの活かし方を知ることが大切です」とアドバイスする。
その具体的な例の1つが、システム投資のアプローチだ。大企業には、部署単位でAI導入やコールセンター改革などをいくつも実行できる体力がある。
「でも小さい組織は、個別最適なシステムをいくつも導入する余力はありません。だからこそ最先端のサービスを選び、それを全社で徹底的に活用することを選びました。サービス提供、開発・運用する各社とのパートナーシップのもと、プロダクトの強みや思想を活かすことを重視しています。ITやデータは“導入するもの”ではなく、人や組織と同様に“育てていくもの”だと思います。その実現例が、&eなのです」
こうした一連の取り組みについて、楠目氏は、「今も道半ば」と語る。組織や人々の意識改革では手応えを感じるものの、まだ満足できる結果は出ていない。それでも組織としての強さを信じているという。
「今まで経験したことのない問題が出てきたとしても、チームで解決できるタフさがあると感じています。これが伝承されてカルチャーになれば、本当に強い組織になれるでしょう」

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