松本:私は、大学を卒業してから営業職に就き、その後エンジニアに転身しました。エンジニア時代に、大学院で統計学やデータサイエンスを学び直し、現在はその分野で仕事をしています。私自身がリスキリングしながらキャリアを積んできたこともあり、リスキリングに強い関心があります。
現在、リスキリングをテーマにした著作を執筆するため色々と調べている中で、大企業とリスキリングの間に何らかしらの「隔たり」を感じました。大企業というのは、少なくとも近い将来は安定しており、おそらく社員もリスキリングを「自分ごと」として捉えておらず、マインドチェンジが必要なのではと考えています。岸さんは、まさに企業の現場でリスキリングの指導に当たっているので、いろいろとお聞きできるのを楽しみにしていました。
まずは読者に向けた自己紹介を兼ねて、リスキリングとの関わりを教えてください。
岸:私は、1990年ごろに住友生命保険相互会社に入社しました。長らくシステム部門に在籍しており、8年目くらいの時、社内提案制度で健康増進サービスのアイデアを他の同年代の数人で書き上げて提案しました。このアイデアは現在、住友生命が提供する「Vitality」になった形ですが、当時は「このような商品が世に出る時代はすぐには来ないだろう」との判断でした。当時は早すぎて検討されず悔しい思いをしました。若かったので「納得できない」と思い、その後も数年間新しい保険ビジネスの提案を続けました。実現したものもありましたが、実現できないものも多く、本当に「この新しい仕組みは世の中に必要とされないのだろうか」と思い、抽象化してインターネットに発信したり、インターネット上で記事をアップしたりしました。
それらの活動を続けるうちに、保険のお客さまの会社にビジネスアイデアを提案したりしました。これらの活動は住友生命の仕事にも役立ったのですが、今から10年くらい前にそういう活動を続けるために独立した方がよいか、住友生命を続けるかを考えたときもありましたが、「これからの時代は、自分みたいな存在が社内にいてもいいのではないか」と思い至り、「Vitality」に関わるなど、その後も会社に残り、デジタルやビジネスのスキルを会社に活かせるように活動しました。
これまでに住友生命での業務と並行して、プロボノ活動でデジタルや教育の研究や講演、研修をやってきましたが、現在は、住友生命の新規事業の一つとして法人の社員向け「リスキリング」を日本の企業が直面する難しい課題と位置づけて、解決策の模索をしているところです。
松本:現在、大企業はDXに取り組んでいる真っ最中であり、デジタルスキルなどをはじめとしたリスキリングのプログラムが進行しています。しかし、思うような成果が得られていない、という声を聞きます。実際はどうなのでしょうか?
岸:当社も含めて日本の大企業の社員は、これまでデジタルを学ぶ機会が少なかったため概してデジタルに弱いと感じます。リスキリングについて言えば、大企業は仕事が細分化され、一部の作業だけが社員に割り当てられることが多いので、社員から見ればスキル習得から実務に生かすまでの一連のサイクルが長い(企画から実施までを経験するサイクルが長期になりがち)ことに課題があるのではないかと感じています。
昔は世の中の流れが遅かったため、それでも成り立っていました。ところが、以前とは違い、世の中の変化のスピードが速くなっています。しかし、このスピードの変化に合わせて仕事の方法も変えないといけないにもかかわらず、変化が激しくて企業側、経営者や管理者といったシニア層がこれまでのビジネスの流れのまま、時間をかけてしまっているように思います。一方で若い世代はスキル習得のスピードが遅いことに焦りを感じています。管理職は今まで延長戦で完全に仕事をしたい、若者はもっと早く成長するためにいろいろなことをやらせて欲しいと感じている。このギャップが、若い世代のモチベーション低下にも影響しているのではないかと感じます。
松本:焦りを感じているなら、自主的に学ぶこともできます。それがリスキリングにつながっていかないのはなぜでしょうか。
岸:誤解を恐れずに言えば、日本の大企業で社員のリスキリングが進まないのは、「困っていないから」ではないでしょうか。既存の大きなビジネスがあって、比較的経営が安定している。今まで通りの仕事をしていれば、収入面で困ることがない。仕事がなくなるわけでもない。だから、積極的に新しいことを勉強しようという思いが生じにくいのではないでしょうか。
でも実際は、デジタルなど新しい知識や技術がないと今後は企業が存続できなくなってくるリスクがあります。新規事業もデジタルを絡めないとスケールし難いでしょう。そこで、デジタルやビジネスモデルに弱い企業は、外部のノウハウがある企業に頼ることになります。委託予算を確保して外部のコンサルタントやベンダー、スタートアップなどに悪い言葉かも知れませんが「投げる」形になってしまっているところも多いと思います。そして、大企業の社員の仕事がDXをやるのではなく、DXをやるために「外部業者を選定する」「予算を立てる」「管理する」ことに重きを置くようになってしまっているような気がします。もちろん、自社でしっかりDXをやっている大企業も多くありますが。
松本:デジタルツールが進化したことで、外部の専門家の力を借りなくてもできる仕事の幅と量は増えています。それでも「丸投げ」になってしまう理由を示唆するエピソードがあります。
当社はウェビナーを頻繁に開催していますが、毎回、1人~1.5人程度のリソースで回しています。デジタルツールを使ってランディングページの制作も、ウェビナーのURLの発行も、集客も自分でやります。しかし、大企業の方にウェビナー開催の人員について聞くと、それぞれの業務に担当がつき、6人くらいでやっているようです。そこで「ツールを使えば、1人でできますよ」と提案すると、「松本さん、そうすると私たちの仕事がなくなります。これくらいでちょうどいいんです」と返ってきました。
岸:関与する人が多い上に、一人当たりの仕事量が少ないのは間違いないでしょう。そうすると、1人の社員が仕事を通じて学べることが少なくなります。しかも1つの仕事をタスクとして切り分けて分担するため、全体像が分からないまま携わることになります。これでは成長の速度は上がりません。
松本:丸投げ文化は、非常に根深い問題のようですね。もう少し詳しくお話しいただけますか。
岸:自分の反省も含めていうと、よくわからない分野で、自信がないと詳しいコンサルタントやベンダーに悪気なく丸投げしてしまうケースがあります。
「Vitality」は、元々プログラムが海外にあり、それを日本向けにカスタマイズしたのですが、当初は社内にデジタルの分かる人間が非常に少なく、どのように進めていいか分からない状態でした。そこでコンサルティング会社からの提案を受けて、運用の契約を結んだのです。そうしたら、システムの担当者が悪気なくコンサルタントにお任せするような「丸投げ(関係者にそういう自覚はない)」に状態に近い形になってしまいました。非常に言いにくいのですが、打ち合わせの議事録まで、全部書いてもらうような状態でした。
松本:私も、同様の悩みを耳にしました。8年ほど海外で子会社の社長を務めた方から聞いたのですが、日本の本社に戻ったら、以前は戦略立案の支援をコンサルティング会社に依頼していたものが、全て任せきりになっていたそうです。あきれて「それで、本社の君たちは何をしているのか」と尋ねたら、「コンサル会社のやっていることをマネジメント(見守って)しています」と。
岸:耳が痛い話ですね。エンジニア達に「なぜ、積極的に関与しないのか?」と聞いたところ、「新しい技術のことは分からないので、自分達は全体をマネジメントしています」ということでした。ああ、これだ。自分も若いときはそうだった。悪気なくプロにお任せした方がよいと判断しているんだと思いました。危機感を抱いた私は、「自分たちで戦略を考え、自分たちでつくった資料で、自分たちの言葉で教えてほしい」と依頼しました。エンジニア達は理解してくれて、その後努力して今では自分たちでできるようになっています。「Vitality」だけでなく、順次CRMやスマートフォン用サービスも追加していったのですが、それらに関する業務も、エンジニア達が自分たちの言葉で語れるまでに成長しています。
松本:「自分たちの言葉で語れるようになること」は、まさにDXの大きな課題ですね。営業でも販促でも、あるいは工場でも、代々継承されてきた暗黙知みたいなものがあり、それについては語れるのでしょうが、デジタルが絡むと分からないから、途端に語れる人が少なくなります。その結果として、「丸投げ文化」につながっているのかもしれない…と感じます。
岸:かつてシステムというのは、定型業務を機械化・自動化することでした。そのため業務部門が情シス部門に、「これを自動化して」と要件を出して、情シス部門は言われた通りにつくればよかった。社内のインフラ屋・システム屋でよかったわけです。
でも、世の中は変わりました。デジタルがビジネスの前提になっている時代です。事業部門などは、システムを情シス任せにしないで、自らがデジタルを使い、データを駆使してビジネスをつくっていくことが要求されています。一方、情シスがデータ活用を進めるにしても、ビジネスモデルの理解なしに成果にはつながりません。だからこそ、部門を問わずにリスキリングをしなくてはならないのです。
(後編に続く)
(取材・TEXT:JBPRESS+稲垣/下原 PHOTO:落合直哉 企画・編集:野島光太郎)
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