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ナラティブが世界を廻す(1)–大衆心理を誘導するケンブリッジ・アナリティカ事件

SNSの普及によるソーシャルビッグデータの確立と不安定な社会情勢に伴い、「ナラティブ(物語)」の重要性が注目されている。人間の脳は、様々な事象を時系列に並べるナラティブ形式にすることで、記憶に残りやすいことが判明している。また物語は他人との共感を促す機能も持っている。さらにインターネットの普及によってSNSも強大なパワーを持つようになってきており、アルゴリズムやAIなどのテクノロジーの進化によって、ナラティブとSNSは大衆心理を操り戦争の道具にまで利用されるようになってきた。今回は、まず大衆心理をどのようにして操ることができるようになったのか、その基本的な仕組みから解説する。


 

         

登場人物

大学講師の知久卓泉(ちくたくみ)
眼鏡っ娘キャラでプライバシーは一切明かさない。

桃井太郎(ももいたろう)
令和大学ハイテクラボの准教授。人工知能から心理学、社会学などあらゆる分野に詳しい学者。

サルくん
軽薄で口が達者だが怜悧な頭脳を持つ大学院生。

 

計量心理学とは

 チクタク先生

今回から講義のテーマは、しばらくAIではなくナラティブ(物語)になります。私は専門外なので、桃井先生に講師をお願いしてあります。ただ私もこの”ナラティブが世界を廻す”というテーマが面白そうなので聴講することにしました

 桃井教授

桃井太郎だ。チクタクさん、よろしく。僕は受講生が眠くならないようにガンガン質問するタイプだから、そのつもりで

 サルくん

ボクも興味があるので受講しますが、お手柔らかに

 桃井教授

そうか、サルくんもいたのか。これは質問のしがいがあるな。ではさっそく聞くが、ナラティブ(narrative)の意味は知っているかね?

 サルくん

日本語では「物語」ですね。ただ、わざわざナラティブという英語にしたからには別のニュアンスもあるのでしょう

 桃井教授

そうだ。物語だけでなく話術やストーリーなど、物語性を含む幅広い意味を持っている。日本語にはナラティブに相当する適切な言葉がなかったので、ナラティブとそのまま用いることにした。ではさっそく講義に入ろう。チクタクさん、ケンブリッジ・アナリティカ(Cambridge Analytica)事件を知っているかな?

 チクタク先生

はい。ブレグジット(Brexit)を引き起こすために大衆心理を操った有名な事件でしたね。それほど詳しくは知りませんが

 サルくん

ボクは聞いたことすらないので、ブレグジットから教えてください

 桃井教授

なんだ、ブレグジットも知らないのか。常識だぞ。イギリスがEUを離脱することだ。ではナラティブが持つパワーの話をする前に、そのパワーの源にもなっている”計量心理学”の概略から始めよう

心理学には、“計量心理学(psychometrics)”という心理学的測定法がある。これは、アメリカの心理学者が、人間を“特性5因子”と呼ばれる人格特性で査定しようとするモデルを提唱したことから始まった。

・開放性(Openness to experience):好奇心の強さや想像力の豊かさの強さ
・誠実性(Conscientiousness):良心性、責任感の強さ、感情のコントロールなど
・外向性(Extraversion):社交性、活発性の程度
・協調性(Agreeableness:どれほど思慮深く協調的か
・神経症傾向(Neuroticism):ネガティブ反応、傷つきやすいかの程度

この5つの特性を使うことで、どういう人かを推定できるとした。その人が欲していること、恐れていること、どういう行動をとる傾向があるか、といった推定で、計量心理学の標準手法となっている。一般的には被験者にアンケートを行い、その結果を最尤推定やベイズ統計などの統計的手法を用いて解析している。

 チクタク先生

採用試験や人事がよく利用している、ビッグファイブ理論のことですね

 桃井教授

そうだ、知っているじゃないか。ここまでは前振りだ、続けるぞ

■ここまでのポイント

・ナラティブとは「物語性」や「ストーリー」などの幅広い意味を持つ
・ナラティブのパワーの源は、「計量心理学」にある
・計量心理学は「特性5因子」を用いて人の特性を推定することを目的としている

ケンブリッジ・アナリティカ事件

2008年頃、ケンブリッジ大学の心理学者ミハル・コシンスキが、フェイスブック(FB)のアプリを用いてユーザーにアンケートを行い、何に“いいね”をしたか、何をFB上でシェアしたかなどのデータと回答を、計量心理学で分析した。すると、ユーザーの心理特性や行動特性が高い精度で推定できることを発見したのだ。例えば、ユーザーの肌の色(95%の正確度)、性的嗜好(正確度88%)、米国人の場合は民主党または共和党のどちらを支持しているか(85%)などを推定することが可能、というものだ。さらに知能指数、所属する宗教、それに加えてアルコール、煙草、薬物の使用、といったものすべてが決定可能となった。

コシンスキは、さらにモデルの改良を続けることにより、人のFBの“いいね”10個だけに基づいて、その人の人となりを、その人の平均的な同僚よりも正確に言い当てることができるようになった。“いいね”70個もあれば、その人の友人がその人について知っていることにも勝る。“いいね”150個あればその人の両親にも勝り、“いいね”300個あればその人の伴侶の知識をも上回る。2012年にコシンスキは、この研究成果を公開した。

 チクタク先生

ちょっと待ってください。アンケートするのはいいですが、どうしてユーザーの性別や年齢などの”正解”を知っているのですか?個人情報ですよ。アンケートにそこまで書いたのですか?

 桃井教授

よい質問だ。今では信じられないかもしれないが、2014年頃のFBはユーザーやその友だちのプロフィールを一般に公開していた。だから”友だちAPI“を利用すれば簡単にユーザーのプロフィールのデータを収集できたのだよ

 サルくん

Webマーケティングでも、FB社のAPIやクローリング、スクレイピングなどを使ってネットから個人データを収集していますね。以前は一般的な手法でしたが今ではかなり制限されていますが

2015年になると、イギリスの選挙コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカ社(CA社)は、驚くべきことを発表した。それは、“幅広い相手から個人情報を購入して、共和党の有権者名簿と収集データを統合し、計量心理学を用いることによって、アメリカ合州国のすべての成人2億2000万人のパーソナリティ情報を割り出した”と発表したのだ。トランプとクリントンの第3回大統領候補討論会の日、CA社の支援を受けたトランプチームは、トランプの議論のために17万5000通りの広告を用意して、潜在的にクリントンに投票しそうな人々が投票所に足を運ばないよう仕向けた。さらに米国の全人口を32のパーソナリティの型に分類し、17の州にのみ注力するなどのキャンペーンを行った。

ここで重要なのは、熱烈な支持者に対しては何をしても無駄だということだ。まだ決めかねている曖昧な支持者に対して、この心理作戦を実行することで、効果を発揮することができる。

 サルくん

具体的にはどうするのですか?

 桃井教授

そうだな、ストイックな保守派有権者に対しては、伝統、行動、結果という言葉、個人主義者な有権者に対しては決断、防御といった言葉をキャンペーンに入れることで効果が高まるのだという

 サルくん

それだけですか?

 桃井教授

もちろん、これは一例にすぎない。この保守派有権者の投票を促す以外に、リベラル派の投票を抑制させる広告もした。例えば“ヒラリーは米国を破壊する”とか、ヒラリーの夫の浮気問題のようなネガティブ広告などだ

このキャンペーンの結果、トランプの好感度は平均3%上昇し、トランプに投票する意思がある有権者が8.3%上昇したという。トランプが僅差で勝利したことを考えると、この心理作戦による効果は大きかったと言えるだろう。

こうしてトランプ大統領が誕生し、CA社は1500万ドル超を稼いだと言われている。トランプ陣営の勝利の原因は、CA社の成果だけではないだろうが、少なくともパーソナリティに基づいた広報戦略は現実に有効だったはずだ。なおCA社は、イギリスの欧州離脱キャンペーンのブレグジットにも関与したとされ、2018年にFB社最大8700万人分のユーザーデータを不正収集した疑惑で破産している。

予想に反してイギリスがEUから離脱し、アメリカにトランプ大統領が誕生すると、世界は混乱した。コシンスキは世界中から非難を浴びることになる。しかしコシンスキは首を振って答えたという。

「違う。それは私の責任ではない。私が爆弾を作ったわけではない。私は爆弾が存在することを示しただけだ」

 桃井教授

これがCA社事件の概要だ

 サルくん

酷いというか恐ろしい話ですね。大衆心理を自在に操れる手段があるなら、選挙は金さえあればどうにでもできますよ

 桃井教授

自在というわけではない。ターゲットとなる人々の属性や性格特性を、FBのようなビッグデータから収集分析し、きちんと把握していることが大前提となる。しかもある程度誘導できるというレベルだ

 チクタク先生

でも結果として選挙の予想結果を覆したのですから、この方法は有効な手法として認められましたね。この結果、現在”マイクロターゲティング”として広告で利用されています

 桃井教授

まぁそうだが、この事件以降はプライバシー保護について関心が高まり、ヨーロッパの厳密なプライバシー保護規定であるGDPRがやっと機能を始めたこともあり、個人情報の収集は世界中で厳しく制限されるようになった

 チクタク先生

それに比べて日本では、FBの利用率が低いこともあって、それほどこの事件は注目されませんでした。ですから相変わらずプライバシーのリテラシーは低いままです

 サルくん

それで、プライバシーの話ばかりですが、ナラティブはどうなったのですか?

 桃井教授

先ほどCA社事件のナラティブをしたじゃないか

 チクタク先生

桃井先生、冗談はやめてください

 桃井教授

そうだな、では長くなったので、続きは次回にしよう

■ここまでのポイント

・ナラティブが作用した代表例は、政治コンサル企業が起こした「ケンブリッジ・アナリティカ事件」である
・CA社の事件は、大量の個人情報と計量心理学を用いた「ナラティブ」を展開した
・キャンペーンや広告によって大衆心理を誘導し、トランプ大統領が当選した米国大統領選や英国のEU離脱に大きな影響を及ぼした

【第2回へ続く】

著者:谷田部卓
AIセミナー講師、著述業、CGイラストレーターなど、主な著書に、MdN社「アフターコロナのITソリューション」「これからのAIビジネス」、日経メディカル「医療AI概論」他、美術展の入賞実績もある。

(TEXT:谷田部卓 編集:藤冨啓之)

 

参照元

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